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2011/01/26

インセプションの解釈

遅ればせながら、インセプションを観たんで、例によって解釈しますよー。

ちょっとその前に、前々から思ってたことなんですけど、インセプションに限らず、映画の中で流
れる曲って字幕がつかないじゃないですか。
訳詞の表示って必要だと思いませんか?
特に古い曲が流れる場合は、歌詞の内容が重要な意味をもってたり、ちょっとした冗談になって
たりするんで、映画会社の人には、ぜひ字幕をお願いしたいところです。
なんて書いても、映画会社の中の人の目に、この文章が触れることはないでしょうけど。

インセプションでは、エディット・ピアフ生涯最後の曲が何度も流れます。

人生いろいろあったけれども、私は何も後悔しない、という内容なわけです。
亡くなった人が歌う曲、生涯最後、後悔、フランス、
これ、インセプションを解くキーワードだらけでしょ。

僕はエディット・ピアフのファンなんで、内容を知ってたんですけど、これ、字幕で歌詞の表示があ
るのとないのでは、全然違ってきますよ。

されに付け加えれば、これはたまたまですけど邦題は「水に流して」ですよ。
水も重要なキーワードじゃないですか。

(ちなみに、美空ひばりの「川の流れのように」よりも、エディット・ピアフの「水に流して」のほうが
先でございます。)

で、解釈に戻りますと、どうせまた「ダークナイト」の時みたいに、9・11テロと結びつけるんだろ

なんて思っわれてるかもしれませんね。
まあ確かに、今回も9・11にからんではいるんですよ。

・冒頭のビル。
・いつのまにか向いのビルに移り、飛び降りる妻。
・かつて妻と創った世界では、ビルで暮らしていた。
・その世界を再び訪れると、崖のようなビルが崩れ落ちている。

いつのまにか向いのビルに妻がいたり、思い通りになるのだから豪邸で暮らせばいいのに、わ
ざわざビルで暮らしていたりというのは、いかにも不自然。
不自然なシーンというのは、普通なら設定のミスなわけですが、こと、緻密なノーラン監督に限っ
てはそんなことはないわけで、これは不自然になろうともこうしたかった何かがあると考えるべき
でしょう。
これらのビルの意味するところは、かつてテレビで見た9・11は幻影だったのでは、という暗示な
んじゃないかと思いましたよ。
でも、「インセプション」で9・11が占める割合は、ほんの一部。

この映画は、ストーリー自体が階層構造だし、端から端まで、暗示、謎掛け、引用、繰り返しと対
比、メタファーが大量にあるんで、観終わった後、思い出してあれやこれやと楽しむ余地がいっ
ぱいあって、いろんな見方ができるわけですが、そのたくさんある見方のうちのひとつにすぎま
せん。

ちなみに、映画評論家の町山智浩氏は、「ラスト・タンゴ・イン・パリ」「惑星ソラリス」「去年マリエ
ンバートで」、それから小説家ボルヘスとの関連性について話されていますね。

他にどんな解釈があるかな、とググッてみたんですけど、ネット上では、ストーリーの理解と整合
性について書かれていることが多くて、監督が何を伝えたかったかという大元の解釈については
、あまり触れられていないようなので、ここではそこのところを書こうと思います。

まあ、「惑星ソラリス」との対比で、解釈するのが正しい映画ファンという気がしないでもないです
けど、なんせ、階層的な話でしょ。

だったら、観るほうも階層的に別な話を重ねたっていいじゃないの、ということで、勝手に想像力
を働かせて、もうひとつの裏インセプションを披露いたしまする。
どうぞご覧あれ。


クリストファー・ノーラン監督は温めていたストーリーがあった。
それは、「惑星ソラリス」の舞台を宇宙ではなく、夢の中に置き換えたもので、妻を亡くし、その幻
影に囚われた男の話である。
迷宮のようなストーリーとCGによって、観客は映画館で夢を体験するのだ。

おおまかなストーリーができあがり、その出来栄えに、ひとりほくそ笑むノーラン監督。
だがここで、たまたま、あるDVDを観て青くなる。
それは、今敏監督のアニメ「パプリカ」

「うわっ、やられたー。
これ、オレが作りたかった世界じゃねーか。
しかも、オレの脚本よりこっちのほうがイイぞ。
まさか、産業スパイとからめるとわなー。
こいつを使えばエンターテイメントに出来るぞ。
007みたいな雪山でのアクションシーン加えたりしてさー。
寝たきりの老人ってのもやられたなー。
夢と死と回想のメタファーになるもんな。
それになんといっても、あのホテルの廊下でグニャ~と重力がなくなるシーン。
あの映像は一度見たら忘れられないわー。
うおー、これはくやしいっ。
脚本は全部やり直しだ。
こうなったら、オレはパプリカの3倍、いや4倍スゲーのを作ってやるぜ、そしてそれを敏のヤロー
に見せつけてやる。」

というわけで、インセプションは日本から始まるのです。
新幹線の中では御丁寧にも、マンガを読む人のシーンまであります。

渡辺謙が指令を出すだけでなく、見学者としてずっとデカプリオの近くにいるのは不自然だと思
いませんでした?
007シリーズのQは、ジェームス・ボンドと一緒に行動しませんよね。
渡辺謙が演じるサイトウとはサトシのこと。
今敏なのです。

サトシならぬサイトウは指令する、いや、挑発するのです。

「お前はパプリカを超えることができるのか?」

「オレは挑戦するぞ。敏よ、間近でオレのインセプションをしっかりと見ておけ」

というわけで、渡辺謙(今敏)はノーラン監督の仕掛けた世界をもっとも間近で見ることになるの
です。

インセプションはパプリカのパクリでは?と、話題になっていたようですが、ノーラン監督は、ただ
パクっておいて、全て自分のものとするようなことはしておりません。
自分と同じ感覚を持つ作家の優れた作品に対して、まっこうから挑戦しているのです。

ノーラン監督は、夢を階層構造にし、下に降りるごとに時間の流れが早くなる、という設定で勝負
にでます。

雨は川に流れ、コップ、バスタブ、池にたまることもあれば、時に雪となることもありましょう。
海に至って波打ち際に押し寄せるように、夢の階層が深くなるにつれ、
深い水の底に降りていくような息苦しい世界を創りだしました。


ラスト近くで、デカプリオは任務を果たし、それを渡辺謙は見届けました。
一見、夢が終わり、渡辺謙(今敏)がノーランを認めたハッピーエンドのようです。
ところが、コマがまわり続けるのか、止まるのか、分からぬままエンドタイトルとなります。
エンディングが夢だったのか、現実だったのかが分からなくなります。
ということは同様に、インセプションがパプリカを越えたかどうかの判断も映画の中ではついてい
ないのです。

今敏監督はインセプションを観ることができませんでした。
コマがまわり続けのるか、止まるのかは、永遠に分からないままです。

2011/01/11

たまの映画

1月8日、たまの映画に行ってまいりました。

上映後に、Gさんと監督のトークショー&ミニライヴがあるせいなのか満員御礼で、立ち見の人までいましたよ。

映画のほうは、あまり期待していなかったのですけど、予想以上の出来で大満足でございました。

ネットの評判だと、Twitterでは絶賛が多くて、2ちゃんだと厳しい意見が多いですね。

「たま」のことをあまり知らない人や、そこそこのファンにとっては、新鮮なことばかりで受けが良いけど、
コアなファンにとっては、ライヴの場面は、もう生で見てるし、インタビューの内容は知っていることばかり、ということなのかもしれません。

あと、これは低予算のドキュメンタリー映画なので、ライヴシーンといっても、音楽DVDのように、数十台のカメラで撮っているわけではなくて、
ほとんどのシーンが1台で、多くても2台なので、曲の展開に合わせて次々とカメラが切り替わるということはないわけで、
そういうのを期待した人はがっかりしたかも。

そう言ってるワタクシは、どれだけ「たま」のことを知っているのかと、狭い部屋を見渡してみますと、
レコード1枚、CD13枚、本4冊、VHS2本、DVD1枚、あとはこまごまとしたグッズが少々。
ソロ関連では、滝本晃司4枚、パスカルズ3枚といった程度、
あとは、石川浩司プロデュースの店「ニヒル牛」で数年間、ミニ写真集を置いてもらっていたことくらい。

全然熱心なファンではございませんね。

というわけで、ライトなファンのワタクシにとっては初めて知ることばかりで、映画は堪能したし、おまけに生のGさんと監督も見れて、ミニライヴで2曲聴けて大満足。


でもそんなことよりも、今回ワタクシが伝えたいことは、上映終了間近に起こった奇跡についてなんです。

ちょっとネタバレになるような気もしますが、この映画はライヴシーンとインタビューが交互に来るという作りで、
ストーリーがあるわけではないんで、まあいいかなと思うわけです。


カメラは歌う知久寿焼の横顔を映しつつ、暗転し、出演者名が現れ、
演奏シーンとスタッフロールとがカットバックのように交互にスクリーン上に映しだされます。
ああっ、この曲が歌い終わると同時に、この幸せな映画の時間も終わってしまうのか、
もっと続いてほしい、もうすぐ曲が終わってしまう、
と、劇場のシートに身をうずめている全ての人々が思い巡らせているその時、
スクリーン上部のライト3台が劇場内の人々を照らし、スクリーン両側のカーテンが閉まり始めたのです。
劇場のライトは、知久寿焼を照らすライトと呼応し、劇場のカーテンはステージのカーテンであるかのよう!
ああっ、今まさに映画とライヴが終わる!
時よ止まれ!

ここでさらに驚くべき奇跡を体験することとなる。

満員の観客の念じる心が通じるのだ!
曲のブレイクと共に、カーテンは途中で止まり、再びまた開き始めた!
モーゼが海を二つに割ったその場に遭遇したイスラエルの民の心持ちはこのようであったろう。

もちろん、劇場内は割れんばかりの拍手。

いやはや、なんと斬新な演出であろうか。

シンプルではあるが、スクリーンの向こう側とこちら側が一体となる素晴らしいアイデアだ。

ブルース・スプリングスティーンはライヴ終盤で、突如会場全体を明るく照らし、怒涛のロックンロールメドレーを繰り出すが、
新宿の小さな映画館、しかもレイトショーで、このような革命が起きていようとは、よもやブルースも知るまい。

と、関心することしきりだったのですけど、ここで劇場からアナウンスがありました。

「先ほどは誤った操作で、上映中に劇場内が明るくなってしまい大変申し訳ございませんでした・・・」

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